2025年のノーベル生理学・医学賞の受賞者に選ばれた大阪大学特任教授の坂口志文(さかぐち しもん)氏の最大の功績は、「制御性T細胞(Treg)」の発見です。
 この発見は、長年の免疫学の常識を覆し、がん治療を含む様々な疾患の治療法開発に革命的な影響を与えました。坂口教授の業績が、がん治療とどのように結びついているのかを解説します。
業績の核心:免疫の「ブレーキ役」制御性T細胞の発見
坂口教授は1990年代に、免疫細胞の一種であるT細胞の中に、過剰な免疫反応を抑制する働きを持つ特殊な細胞集団が存在することを突き止め、これを「制御性T細胞(Treg)」と名付けました。
免疫機能における制御性T細胞の役割
私たちの体には、病原体や異物から体を守る「免疫」という防御システムがあります。このシステムには「アクセル(攻撃)」と「ブレーキ(抑制)」の働きがあり、Treg細胞はまさに免疫の「ブレーキ」の役割を果たしています。
★平常時: Treg細胞は、免疫が自分の体を誤って攻撃してしまう自己免疫疾患(膠原病、1型糖尿病など)が起こるのを防ぎ、免疫のバランスを保っています。
★がん細胞がある時: がん細胞は、本来免疫細胞が攻撃して排除すべき異物です。しかし、がん細胞は自ら生き残るために、このTreg細胞を味方につけ、自分の周囲に大量に集めます。その結果、Treg細胞の「ブレーキ」が過度に強くかかり、免疫細胞(キラーT細胞など)ががんを攻撃する力が弱められてしまいます。
がん治療への画期的な応用:免疫療法の両輪を確立
坂口教授が「免疫のブレーキ」の存在を明らかにしたことで、「がん細胞はTregなどの免疫抑制機構を利用して、免疫による攻撃から逃れている」というメカニズムが世界で初めて明確になりました。この知見は、がん治療のパラダイムを大きく変える「がん免疫療法」の発展に決定的な基盤を与えました。
1. 免疫チェックポイント阻害薬(ICI)の科学的基盤
 がん免疫療法の成功を導いた免疫チェックポイント阻害薬(ICI)は、T細胞の表面にあるブレーキ分子(PD-1やCTLA-4など)を抑えることで効果を発揮します。本庶佑教授(PD-1の発見)らによってICIの開発は大きく進められましたが、坂口教授のTreg細胞の発見は、がん治療における免疫の「ブレーキ」機構を世界で初めて明確にし、免疫チェックポイント阻害薬が機能する科学的な基盤を確立しました。この二つの発見は、免疫の「アクセル」と「ブレーキ」という、がん免疫療法の両輪をなす極めて重要な貢献です。
2. Tregを標的とした次世代の治療法
 坂口教授の研究は、Treg細胞そのものを直接操作する、より高度ながん治療法の開発へとつながっています。
★Tregの機能抑制・除去: がん細胞が集めているTreg細胞を一時的に除去したり、そのブレーキ機能を弱めたりすることで、がんに対する免疫攻撃力を高める治療法の研究が進んでいます。これは、既存のICIの効果をさらに増強するアプローチとしても期待されています。
★個別化医療への貢献: がん組織内のTreg細胞の量や活性を調べることは、どの患者さんに免疫チェックポイント阻害薬が効きやすいかを予測するバイオマーカーの役割も果たし、がんの個別化医療にも貢献しています。
坂口教授の「制御性T細胞」の発見は、「免疫のバランス」という複雑な生命現象の根本原理を解き明かし、特にがんの免疫逃避メカニズムを理解する上で不可欠な知見となりました。この発見こそが、現在、世界中のがん患者の予後を改善しているがん免疫療法の理論的・科学的な礎となったのです。
(2025.10.06)